運に見放された男の『起死回生』法

 ある時、江戸の儒学者・尾形啓介を平太と名乗る遊び人ふうの男が訪ねてきた。
「先生、どうか、あっしに運を授けてくだせえ。お願いしやす」
「待ちなされ、私は易者や祈祷師ではない」
「しかし、先生のもとへ相談に来た者は、みんな幸せになっていると、もっぱらの評判でさあ。あっしは、よくよく運のねえ男で、五年間奉公した店はつぶれ、次の飾り職人の家は火事で焼けました。しかも火付けの疑いで三年も牢に入れられました。無罪放免で帰ればほれた女は行方知れず。あとは捨て鉢のバクチ打ち。先生、どうか運を変えてくだせえ」
「そういうワケがあったのなら、よく聞きなされ。まず、お天道様と一緒に起きること。そして、自分は運が悪い、不幸せだという気持ちを一切捨てること。ここへ来た瞬間から、おぬしの運は変わったのだから。この二つを心において、精一杯いきなさい」
以来、平太は規則正しい生活を始めた。
近所づきあいもするようになって、しだいに人間関係も広がっていった。毎日が健康で、清々しく、真面目に働いたので、運も上昇していったという。
運は天が定めたり、人からもらうものではなく、自らが開くものなのである。

何か必ず「つかむ」人の心構えとやり方

 二人の男が、願い事があって熱心に神社に参詣した。雨の日も、風の日も、同じように祈った。
 ある日、神様のありがたいおでましとなって、橘の実が三つついた幸福の枝を一人の男だけに授けた。もちろんもう一人の男は不満である。
「同じように参詣したのだから、せめて橘も半分わけてくれ」と授かったほうの男に頼んだが聞いてもらえない。そこで仕方なく、「それなら実物はくれなくてもいいから、言葉だけ『やる』と言ってくれ」と頼む。
相手も「それくらいなら」というわけで、「橘はお前にみんなやるぞ」と言う。頼んだ男は、その言葉を両手で押し戴き、懐へ橘を入れる真似をした。
その後、橘の実物を持って帰った男は何事もなかったが、言葉だけ戴いた男には大きな運がころがりこみ、幸福に暮らしたという。
 私たちはよく神頼みをする。でも、神様に軽い気持ちでただお頼みするだけでは何事も成就しない。神頼みをするから成就するのではなく、自分の気持ちを確かめるために神様に手を合わせ、その実現に向かって一生懸命に努力するから成就するのである。

こんな人には追い風が吹いてくれる

 物事には好機というものがある。人生においても、携わっている仕事の中にも、好機はいつかはめぐってくる。そのめぐってくる好機を、何回目かには必ず、捉えなければならない。そのためには、冷静であることが大切であり、かつは、捉えた好機を離さぬ力ができたと見えるまでは、耐えることが必要である。
 つまり必要なことは、十二分に準備を整えることである。準備なしに好機を捉えては、その好機はソッポを向くし、好機が好機である「きざし」すら消えてしまうだろう。
「小さな植物の芽も、それが育つ条件を備えていなければ枯れてしまう」と言ったのは将棋の永世名人だった大山康晴である。
何事も、能力や努力だけで物事がうまく運ぶなら簡単だ。その間に運が介在、つまり好機をうまく生かすことができるか否かが左右するから複雑になる。だからといって、棚から牡丹餅のように好機を待っているだけではダメである。
好機がめぐってきたときに、それを確実に捉えて追い風にするためには、その前の絶え間ない努力によって実力を蓄えておかなければならない。
好機を捉え損ねて「運がなかった」という人は、その前の準備を怠っているといえる。

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